神無月サスケの波瀾万丈な日常

神無月サスケのツイッター(@ktakaki00)を補完する長文を書きます。

「おおかみこどもの雨と雪」感想

観てきました。その勢いで感想を書きます。

※致命的なネタバレについては背景色で隠していますが、「紹介」の範囲内と思われるものはそのまま書いていますので、「観る前にいかなる予断も持ちたくない」という人は読まない方がいいです。

最初に結論から

映画を観慣れている人は割とこの作品を評価しているようだが、素人の僕が率直に感想を述べると「思っていたほどではない、僕にはイマイチ合わない」だった。

僕がこれを観たきっかけは、先日のテレビ放映で「サマーウォーズ」を観たことと、細田守監督のこと皆が「ポスト宮崎駿」と呼んでいるらしいことだった。僕はアニメ映画はほとんど観ないがジブリ作品は観にいく。そういうのを期待して見にいった。

僕はスタジオジブリ作品ほどこの作品が好きになれなかった。確かに名作であることは認めるが、僕の個人的には、細田監督をポスト宮崎駿というのには大いに違和感があると感じた。

映像、演出

この作品でまず素晴らしいのは、映像だ。見た目は美しい。最近のアニメの水準を知らないので他作品とは比べられないが、これは圧倒された。

<以下、ネタバレ>
特に、狼になった子供たちが野山を駆け巡る際の、狼の視点でのカメラアングルが美しい。

ジブリの背景描写と本作品の背景描写

しかし、見た目について、ジブリ作品が頭にある僕として、気になった点がある。

背景が無機質なのである。

確かに背景は美しい。自然の描写は写実的だし、現代の町並みの背景も細部まで再現されていて素晴らしい。

しかし、無機質的なのである。

人物は「活きている」のに、背景が無機物に見える。

一方、ジブリ作品では人物だけでなく、背景もオブジェも、皆「活きている」。僕はここに、ジブリ作品との決定的な違いを感じた。

この違和感がどこから生まれたのか、素人の僕には分からない。しかし、何となく分かる。背景を描く場合、同じ物を描くにしても、その人の個性という「フィルター」を介することになる。すなわち写真を見ながら忠実に再現するのか、そこに自分の「魂」を込めるか、そういった姿勢の違いが現れる。

本作品の背景は総じて写実的だ。忠実に再現しようとして、フィルターとなる「自分」の介在を極力少なくしたのではないか。一方、ジブリ作品も写実的なのになぜか「活きている」と感じるのは、そこに描く人の「魂」の熱さを入れたからではないか?……そう仮説を立ててみた。誰か検討してください。

シナリオの舞台背景で感じた違和感

「創作に嘘は一つだけ許される」という言葉をよく聞く。この作品で言えば「狼男」がいて、その子供たちを育てる母の話である、という前提のことだろう。だから、それ以外はリアルに納得が出来る描写をするべきである。

しかし、僕にはこの作品にはずいぶんと舞台背景の無理を感じた。そこにいくつもの嘘があり、それが素人の僕が見ると見え見えだった。玄人は騙せても、素人は先入観がない分、こういうところが鼻につく。

この作品の舞台背景は現代の日本らしい。しかし、「いったいいつの時代の話なのか?」と首をひねることが多々あった。

<以下ネタバレ>
この作品の舞台は間違いなく21世紀の日本である。最初に主人公「花」の住んでいる街の描写はまさしくそうだし、夫となった「彼」の遺品の免許証の有効期限が「平成21年」までだし、これは確定である。

しかし、花が引っ越していった田舎の町並みは、どう見ても僕には現代に見えなかった。

この田舎の描写、監督はとなりのトトロあたりに憧れているんだろう、懐かしい情景が繰り広げられる。彼らが住むことになったのも昔風の廃屋。ここまではいい。

しかし僕が目を疑ったのは、主人公(母「花」)が娘の雪のワンピースを縫うシーンで出てきたミシンが相当旧式だったこと。それこそ昭和30年代のものである。今時誰がこんなもの使うのか。さらに違和感は続いた。出てくる車が今時マニュアル車であるうえ、車の内装も手でまわして窓を開けるとか、今時こんなの乗っているのはマニアだけだろう、という古さ。極めつけは豪雨が近いときに「花」が聴いているラジオ。今時テレビじゃなくてラジオってのも凄いが、ラジオの形が相当旧型。カセットテープが入るラジオって今売ってるのか?

このように全体的に、主人公達が田舎に引っ越してから、昭和30年代にタイムスリップした感じでとても僕には現代とは思えなかった。

本当にこの作品は「現代日本」を描いているのか?

この作品は意図的に舞台を「現代日本」と思わせないようにしようとしている節がある。「となりのトトロ」のような古きよき日本を描こうとした監督の下心だろう。しかし、それならなぜ前述のように、年代が分かる描写を入れたのだろう。

本作品の「サマーウォーズ」と対称的な部分は、「IT機器が全く登場しない」という点である。スマホはもちろん、携帯電話も携帯ゲーム機も、一切登場しない。そうすることで、そういうものを意図的に登場させずに「昔風」にして、田舎の描写の整合性を整えているのだろう。

しかし僕はそうやって描かれた田舎の描写に著しい違和感を覚えた。

<以下ネタバレ>
ただでさえ子育てに大変な花が「食費を浮かすため」といって農業を始める意図が分からなかった。子育てだけでも疲れるのに、そんな体力がどこにあるんだろう?子育ても田舎の仕事もこなす、そんなに完璧な母親なんているのだろうか?

そこを匂わせるように「退職後の人達がよくここに来るが、農業にも向かないから戻っていくメンタルが弱い人が多い、」と言うシーンがある。要するに、それだけ花がタフな人間である、と。ちょっとタフさが不自然すぎる。

農業にも向かない田舎の山間の村で、子育て中のシングルマザーが受け入れられるなんて、ちょっと田舎を理想化しすぎていないか?と思った。

そう、現代社会の田舎にリアルさがない。

僕が現代社会の田舎といってリアルに思い浮かべるのは次のような光景だ。

田舎だからこそ、インターネットが引いてあり、そこで外の世界と繋がる。買い物が困難な場合はネットの通販を利用する。田舎で遊びが少ないからこそ、ゲーム機が遊びのひとつになってもいい。友達がいないおおかみこども達ならなおさらである。田舎だからこそ、携帯電話で外との、そして親御さんとの連携が必要になるし、今時田舎暮らしの奥さんはみなそうしているはず。家がまばらにしかないって設定なのに、頻繁に井戸端会議が行われる方がおかしい。親しくなったら携帯電話で話すだろう、こういう場合。

移動図書館で本を借りて調べ物をする母「花」の姿なんかそのアナクロさの一番の象徴だと思った。普通の主婦だったら、いまどき、インターネットで調べるだろう?って思った。

細田監督が意図的にIT関連を排除しようというのを感じたが、僕にはそれが不自然に見えて仕方が無い。

現代社会、僕は「相談できる相手がいなくて抱え込んでいたシングルマザーがインターネットで相談相手を見つけて救われた」というケースをたくさん見ている。「ITこそが救いになって助け合える主婦」っていうのが現代のリアルだと思う。そして、それはネット以外のインフラが乏しい田舎だからこそ顕著になるはずだ。だから、ITを排除してしまったら、そういう田舎に嫁いだ女性の共感は得られないんじゃなかな、と思った。

「ITによる救い」を排除したこの作品は「田舎で子育てをするなら、タフじゃないと生きていけないよ」ってシングルマザーを突き放しているだけに見えた。

主人公の境遇に共感できない

<以下ネタバレ>
このように、本作で描かれているのは「シングルマザーとしての母『花』」の描写であるが、僕は主人公のこの「シングルマザー」像が理想化されすぎていると思った。母の強さを描いたのだろうが、「完全無欠」であるがゆえにイマイチ共感できない。

「おおかみこども」であるから、地域社会から疎外されている親ひとり子ふたり。ここは多くのシングルマザーが共感するシチュエーションだと思う。

それなら児童虐待が常態化している現在、少しは「弱さ」をにじませてくれるべきだった。「弱さ」を見せる点があればこそ、同じ立場の者から共感されるのではないか。この作品ではそういう点が見当たらない。

そもそも育児って「母が子に与える」だけのものなのか。この作品では、「母が子を守る」という一方的な視点ばかりが目に付くが、それは違うと思う。「子から学ばされて成長する母親」っていうのも描くべきではなかったかと思う。子が親の見せた弱さを見て慰める、親が元気付けられる、そんな光景は普通にある。

これは僕の勝手な予想だが、監督には子育ての経験がないんじゃないか。

繁華街に出て親子連れの会話を聞いてみてごらんよ。親は子供に対して常に「理想の親」を演じていないよ。普通に一人の「不完全な人間」だから、子供がぐずると大人気なく怒るよ、それこそ周囲が「そこまで言わんでも」と思うくらい子供をしかりつけるよ。一方、子供は親が思っているより賢いよ。子供は時に大人が気づかないような賢いことをずばっと言ってのけるよ。時には子供は既に親の気を遣って物を言うよ。そういう視点こそ「子育て」を主題にするなら必要だったんじゃないか。

そういうのって監督には分からないのかな、って思った。この作品を作るにあたって、狼や自然を描写するために様々なところに取材に行ったみたいだが(EDのスタッフロールに「取材協力」がたくさん出てくる)、本当に取材するべきだったのは、子持ちの普通の親達じゃないのか。団地や繁華街で何気ない親子連れの会話に耳を傾けることじゃないのか。

「葛藤」の描写が設定の奇抜さに比べて不自然

登場人物にもっと葛藤があってもいいのに、様々なことがすんなり行ったことになっている。そこは省いちゃいけない部分だろう、っていろいろ思った。

<以下ネタバレ>
たとえば、雪が小学校に入るシーン。これまで「狼に変身する子を入れられない」とずっと保育園に入れることも拒否していたのに、「おみやげ三つ、たこ三つ」の狼にならないおまじないを教えるだけで、雪が「狼になることを極力慎む」ということで小学校に通うことを母から許可してもらう。おかしい。子供ってそんなに急に成長できるものか?

小学校とは、それまで同世代の子供との付き合いがほとんどなかった雪にとって、最初の社会生活の場だったはずだ。最初の一年生のところで何も起きない方がおかしい。しかしなにも起きないのはどういうことだ。

そして雪がそれ以降、学校で狼になることで問題を描かれない。四年生になって転校生の草平に怪我をさせるまで、問題が起きないなんて、あまりに無茶じゃないか。わずかに描写された部分といえば「普通の女の子と趣味が合わない」ということくらいか。現実に狼に変身する特性があったら、そんなもんじゃないだろう。

もう一つ、「葛藤の欠如」を象徴的に感じたシーンがある。

「おおかみこども」が成長して、狼の道を選ぶのか、それとも人間の道を選ぶのか。これが作中の大きな葛藤として描かれている。学校に少しずつなじんでいく雪と、学校になじめず自然と一体化して狼としての道を歩き出す雨。これは一番大きな場所のはずなのに、ある夜、二人が突然言い争いになるシーンが描かれた。

正直、僕はここで冷めた。

狼になるか人間になるか、日常から二人とも葛藤を持ち続けているはずだから、もっと日常のさりげない言動から、少しずつ葛藤を持っている意思を理解して交わしていっているはずだろう。こんなにあからさまに口にして、突然論争するような主題とは到底思えない。表現方法が稚拙だ。

だから、葛藤をきちんと描くなら、日常のしぐさの一つ一つを丁寧に描いていくべきだった。ジブリ作品なら、そういう「さりげない描写」の積み重ねが見られたのに、と感じていた。

このようにこの作品は葛藤が突如現れて、突如解決されていく。結局それは最後まで続く。

クライマックス。母「花」は、子供たちが「狼になるか子供になるか」を選ばなければならないと理解しているが、ずっと弟「雨」が狼の道を選ぶことを拒否し続ける。しかし、いざ大雨になり、「雨」の仲間の動物達に危機が迫ると、狼の野性を出して山に行ってしまう。それを探しに行き、倒れてしまう母の「花」。ここがクライマックスになる。

弟「雨」それを助けて駐車場に連れて行き、そこで「雨」が完全に狼になるのを見届ける母親「花」。朝陽が差してくるとともに遠吠えして人間に別れを告げる「雨」。ドラマチックなシーンなんだろうが、僕にはさっぱりだった。ここまでまるっきり葛藤が描かれてなかったため、感動が感じられない。

一方、もう一つのクライマックスは、大雨で学校から帰れなくなった雪が、草平と二人の教室で、彼に狼であることを明かす。彼にのみ、正体を明かした。

これは、非常に重要なカミングアウトのはずである。しかし、このシーンが他の伏線になることもなく、そのまま話は終わる。一瞬の葛藤が、何の展開も生んでいない。

結局、葛藤が描かれていないので、感動がないのである。

カタルシスが得られない

全体的なこの作品の印象を言うなら「噛みあってないジグソーパズルの断片が並べられている状態」だ。映像、アニメーション、人物設定、それぞれを個別に見ると素晴らしいのになんだかそれらがかみ合っていない。シナリオも演出も断片的な部分は光っているのに全体を通して観てみると「んんん……?」ともやもやが残る印象になっているように感じる。

ラストも結局尻切れトンボで終わる感じだった。話のあちこちで入るナレーションは、女の子の雪が過去を振り返る形で「〜〜であった」という形で語られるのだが、これをたたむのを最後の最後で失敗している。

<以下ネタバレ>
話は雪が中学校に入る前で終わり、雪が「中学校の寮に入る、その後も母はあの家で暮らし続けた」と語って終わる。

僕は雪の視点で語られるナレーションの「話をしている現在」とはてっきり雪が母親の「花」と同じ立場になった時、つまり子供を持ってどう思うか、そんな情景が語られるとばかり思っていた。

最後それが無かったのは、残念すぎた。要するに、全てが過去形のナレーションというわけで、エンディングテーマが流れ出したとき、何がなんだか分からなかった。

彼は宮崎駿のように「人間」を描けるか

以上が感想である。要するに現段階では彼が「ポスト宮崎駿」と呼ばれることに違和感を僕は覚えている。

ポスト宮崎駿になるには、この人には人間の「根底」の理解が足りていない。

宮崎駿は人を描いている。どんな舞台設定にしても、人間というのは時代や場所を超えて通じる物がある。それが人間を人間たらしめている、そういう「根底」がある。宮崎駿作品ではそれが描かれているからこそ、僕のように映画にもアニメにも詳しくない人を唸らせるし、時代や文化を超えて愛されているのだ。

一方、細田守の作風は現時点でそこまで普遍的なものだろうか?

まだまだだと思う。

サマーウォーズはOZという仮想空間があって、そこで繰り広げられる世界と現実世界がシンクロするのが面白さだし、本作品も、昭和的ノスタルジーの世界とおおかみこどもという「異なるもの」のミックスが面白いのだが、そこの「根底」に通じる人間味が宮崎駿作品ほど根底までえぐれていない。そこをえぐれるようにならないと、大化けは無理だと思う。

宮崎駿は天才だが、細田守は今のところ秀才。この二つを分ける高い壁を今後越えられるか

宮崎駿は天才である。

宮崎駿のドキュメンタリーを見ていて、彼の破天荒さ、天才さを観た。作画で気に入らないところは容赦なくダメ出しして、最終手段として自分で直してしまう。

自分で様々な経験をして「身体感覚」の大切さを説き、そこから作品を作る。「千と千尋の神隠し」で川掃除のボランティアをして、そこからオクサレ様が川の神様で、綺麗にすると喜ぶ、というのを思いつく。自転車がゴミに混じっているのは、実際の経験だという。

一方、細田守はそこまで破天荒な人だろうか?

僕は彼は優秀な人だと思う。秀才だ。

でも天才と秀才の間には越えられない壁がある。すこし才能がある人がたくさん努力して到達できる場所と、才能がないとたどり着けない場所がある(将棋で言うと、プロ二段と三段の間にその壁があるという)。細田監督はまだその「壁」を越えられていないと感じた。

今後、そこを越えられるのか。化けてくれるかどうか、注目だ。僕は細田監督をまだ好きになれたとはいえない。恐らく僕の方がずれていると言われるんだろう。しかし、本当の名作は僕のような門外漢を唸らせてくれる。細田監督がポスト宮崎駿になるには、そういう部分が必要なんだと思う。