福岡県飯塚市火災:一夜明けて
昨日お伝えした、福岡県飯塚市本町の火災。消防車が入りにくく消火活動が難航するなどで、かなり大規模な火事になった。火事があったのはまさに僕の実家があった通り。僕の家族も避難し、実家周辺は立ち入り禁止になっていた。
今日も現場検証が続いて、立入禁止だったが、幸い、うちはそれほど大きな被害がなかったようだ。
西日本新聞の記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000012-nnp-l40
紙面には地図と焼けた家屋の説明があったようだ。
というわけで、僕のその後の話をお伝えします。
深夜、消火活動が続いている
深夜、気になって眠れないので、もう一度本町に向かう。
まだ立入禁止が解除されておらず、消火活動が続いていた。火は鎮火したものの、完全に消火するまで、水をかけつづけているらしい。
樽屋町だけではなく、本町商店街の中にも引火しているらしい。めがねのエトウから、ライオン堂、そして福岡銀行のATMの前の広場まで消防車が4台ほど泊まっている。
夕方に比べると消防車の数も減っているし、多くの隊員さんたちがホースを片付けている。火事が収まっているのを実感し、一安心。
とはいえ、これは朝にならないと無理だ。そう思い、引き返す。
朝、焼け跡を確認
朝、午前7時、足を運ぶ。
めがねのエトウ周辺
警察の現場検証が続いており、あちこちにおまわりさんを見かける。
昨夜から、エトウが強く燃えていたのを感じていたが完全に焼け落ちていた。思えばこの建物は、僕が幼稚園のころから見慣れていた。ここのおばさんは今でも僕に会うたびに持ち歩いている飴をくれていた。非常に心が痛む。
ここから通路が見える。木造建築が立ち並んでいた樽屋町は、燃えて崩れた木材が通路に覆いかぶさり、通行が出来なくなっているようだ。
えいらく広場
えいらく広場のシャッターが開いていたので様子を確認。
この先が、現場の樽屋町の通りだ。木造建築が並んでおり、激しいのが分かる。
奥に見えるのが、久留米屋と僕の実家、そしてお菓子のさかえやの別店舗がある建物。鉄筋コンクリートなので、燃えたり崩れ落ちたりはしていない。どうやら、35年ほど前に火事になったとき、鉄筋に建て直したという話を聞いていた。
しかし、外装は無事でも、内装は分からない。窓が割れて火が入っていないか。なんか、眼鏡のエトウに向けて、屋上から水が出ている。以前から屋上の水道タンクの調子が悪かった。このため火事の衝撃で破裂したのかと思い、水漏れをしているのかと不安になった。(後で知ったのだが、消防隊員がホースを持って入っており、屋上からエトウに向けて放水を続けていたのだという)
昭和通りから見る樽屋町
昭和通りから見た樽屋町の入り口。
ここはスナックや居酒屋が並んでおり、休日の前の日には常連客のカラオケの歌がいつも流れていた。
どうやらこちらが火元に近いらしく、燃え方が激しい。焼け落ちた木造住宅が通路に覆いかぶさり、トンネルのようになってしまっている。
僕の見慣れた風景が、このようになってしまい、とても心が痛む。
僕が幼稚園の頃は、樽屋町沿いの部屋だったため、いつも夜、酔っ払いの声を聞きながら寝ていたのを思い出す。祖父母にいたっては、部屋の壁一枚挟んでスナックだったため、カラオケの声などが響いていた。(おかげで、うちの一家は、多少うるさくても気にせず寝られる体質である。)
以上を確認して、父と祖母に会って、一旦戻った。
夕方、内装も無事と知る
夕方、再び父と祖母に会いに行く。
未だに僕の実家は通行禁止地区であり、入れないでいた。しかし父から「内装は無事」と知らされた。
どうやら父は、通行禁止の中をかいくぐって、自宅に戻ったそうだ。
一応、保険証を取りに行くという大義名分があったらしいが、肝っ玉が据わっているなあと思った。(言うまでもなく、アナザームンホイの、つくもの父ハヤテのモデルである)
自宅の中の様子を聞くと、電気は通っているとのこと(ガス、水道は未確認)。避難するときテレビをつけっぱなしにしてきたそうだ(もちろん消してきた)。
また、避難の際、父は鍵をかけないまま出てきたそうだが、これが幸いし、消防隊員が消火活動をスムースにできたようだ。向かいに放水するためにうちの屋上に上った形跡があったようだが、鍵があいていたため、窓を割って進入されることもなかったし、部屋の中が水浸しになるようなこともなかった。
親戚一同、内装についても、かなり心配していたが、特に何もなかったようで、その点は安心であった。
しかし、前述の通り、僕のなじみの町並みが失われ、顔見知りの皆様の家が焼かれたのは本当に心が痛む。
一件落着とはいかないが……
というわけで、ひとまず被害が少なかったので安心であった。町内の話を聞いていても、けが人の情報は聞かないので、けが人を出さずに済んだのも不幸中の幸いであったといえるだろう。
今後もいろいろと雑用など細かいことがありそうですが、ひとまず落ち着きました。心配してくれた皆さん、励ましの言葉を本当にありがとうございました。