神無月サスケの波瀾万丈な日常

神無月サスケのツイッター(@ktakaki00)を補完する長文を書きます。

僕に昨日メールを送ってくださった方へ

bird.tnc.ne.jpのドメインからメールを送ってくださった方、大変興味深いメールだったため、返信をしたためたのですが、何度返信してもエラーメールで帰ってきてしまいます。
メールアドレスの設定は大丈夫でしょうか。一度ご確認下さい。
そしてメールアドレスの設定を確認されましたら、改めてメールをいただけると幸いです。

追記 2013/04/10 20:11

ご連絡がないのですが、いつか見に来てくれた時のために、全文を掲載しておきます。


どもです、神無月サスケです。
熱いメール有難うございます。

まずは拙作プレー有難うございます。
これの台詞と僕のブログが、あなたの様々な刺激になれたことを嬉しく思います。

人生にいろいろと悩んで、方向性を探しておられるようですね。
僕ももう少し、いろんな人生の可能性を考えてくればよかったのかもしれないな、と
あなたの意見を見ながら、自分のことが顧みられてきました。

僕の場合、創作でアウトプットすることが青春だった気がします。
そうしながら自分の人生を顧みてきたのですが、
「いろんなことがやりたいが、自分は何者にもなれない」という悩みがあった気がします。

あなたの場合、自分を律しようとすることとマイペースで行くことのはざまで悩んでおられる
部分もあるかと思うのですが、もし可能なら「一歩引いて考える」という点も
大事なのかもしれない、と最近思っています。

最近僕は創作に行き詰まり、何もかも考えるのをやめてしまっていました。
しかし今年に入ってからようやく、何か創作をしてみようという気分になってきましたが、
このきっかけは有るときのひらめきからです。

常に何かに縛られていると、ひらめきを得るチャンスを逃してしまう部分もあるのかな、と
思うのです。普段の自分から一歩引いて動いてみる、そんな姿勢があれば
ひょっとすると見えてくるものも有るんじゃないでしょうか。
焦りは禁物なのです。

特に今、湯浅さんが話しておられましたが、終身雇用は崩壊して、
先行きが見えない時代です。いくら今必要な技能を積んでも、それが生かされるか分からない。
ならば、どうするか。その後も役立つ手に職を付ける、自分のほかの可能性を探す……
答えは人それぞれだし、全てが答えかもしれない。
そういう所を焦らずに見極める時間って大切かもしれません。

なお、水木しげるが結婚したのは42歳くらいと聞いています。
芽が出たのが36歳のころですし、家族が「いい加減結婚しないと嫁のきてがなくなる」ということで
無理やりお見合いを持ちかけた、と聞いていますが、これが運命の人だったようです。
結婚も出会いなんでしょうね。

僕もずっとこの年まで焦ってきたので、言えることがあるとすれば、
もう頑張っても無駄だ、と思い、そう思った時に力が出てきた、ということです。
さっきは「距離をおいて考える」と話しましたが、逆に、出来るところまでやってみるのもありです。

以上、いくつか選択肢を書かせてもらいましたが、ぴんと来たものを
検討してもらえれば幸いです。

本当に今は生きるのが難しい時代になってしまったと思えてなりません。
こんな時代だからこそ、人生に真剣に取り組むことが評価されるべきで、
そしてそのためにはこれまでの時代の人々と違った視点で取り組む必要があるんでしょうね。

ぜひ、検討してみてください!

「おおかみこどもの雨と雪」感想

観てきました。その勢いで感想を書きます。

※致命的なネタバレについては背景色で隠していますが、「紹介」の範囲内と思われるものはそのまま書いていますので、「観る前にいかなる予断も持ちたくない」という人は読まない方がいいです。

最初に結論から

映画を観慣れている人は割とこの作品を評価しているようだが、素人の僕が率直に感想を述べると「思っていたほどではない、僕にはイマイチ合わない」だった。

僕がこれを観たきっかけは、先日のテレビ放映で「サマーウォーズ」を観たことと、細田守監督のこと皆が「ポスト宮崎駿」と呼んでいるらしいことだった。僕はアニメ映画はほとんど観ないがジブリ作品は観にいく。そういうのを期待して見にいった。

僕はスタジオジブリ作品ほどこの作品が好きになれなかった。確かに名作であることは認めるが、僕の個人的には、細田監督をポスト宮崎駿というのには大いに違和感があると感じた。

映像、演出

この作品でまず素晴らしいのは、映像だ。見た目は美しい。最近のアニメの水準を知らないので他作品とは比べられないが、これは圧倒された。

<以下、ネタバレ>
特に、狼になった子供たちが野山を駆け巡る際の、狼の視点でのカメラアングルが美しい。

ジブリの背景描写と本作品の背景描写

しかし、見た目について、ジブリ作品が頭にある僕として、気になった点がある。

背景が無機質なのである。

確かに背景は美しい。自然の描写は写実的だし、現代の町並みの背景も細部まで再現されていて素晴らしい。

しかし、無機質的なのである。

人物は「活きている」のに、背景が無機物に見える。

一方、ジブリ作品では人物だけでなく、背景もオブジェも、皆「活きている」。僕はここに、ジブリ作品との決定的な違いを感じた。

この違和感がどこから生まれたのか、素人の僕には分からない。しかし、何となく分かる。背景を描く場合、同じ物を描くにしても、その人の個性という「フィルター」を介することになる。すなわち写真を見ながら忠実に再現するのか、そこに自分の「魂」を込めるか、そういった姿勢の違いが現れる。

本作品の背景は総じて写実的だ。忠実に再現しようとして、フィルターとなる「自分」の介在を極力少なくしたのではないか。一方、ジブリ作品も写実的なのになぜか「活きている」と感じるのは、そこに描く人の「魂」の熱さを入れたからではないか?……そう仮説を立ててみた。誰か検討してください。

シナリオの舞台背景で感じた違和感

「創作に嘘は一つだけ許される」という言葉をよく聞く。この作品で言えば「狼男」がいて、その子供たちを育てる母の話である、という前提のことだろう。だから、それ以外はリアルに納得が出来る描写をするべきである。

しかし、僕にはこの作品にはずいぶんと舞台背景の無理を感じた。そこにいくつもの嘘があり、それが素人の僕が見ると見え見えだった。玄人は騙せても、素人は先入観がない分、こういうところが鼻につく。

この作品の舞台背景は現代の日本らしい。しかし、「いったいいつの時代の話なのか?」と首をひねることが多々あった。

<以下ネタバレ>
この作品の舞台は間違いなく21世紀の日本である。最初に主人公「花」の住んでいる街の描写はまさしくそうだし、夫となった「彼」の遺品の免許証の有効期限が「平成21年」までだし、これは確定である。

しかし、花が引っ越していった田舎の町並みは、どう見ても僕には現代に見えなかった。

この田舎の描写、監督はとなりのトトロあたりに憧れているんだろう、懐かしい情景が繰り広げられる。彼らが住むことになったのも昔風の廃屋。ここまではいい。

しかし僕が目を疑ったのは、主人公(母「花」)が娘の雪のワンピースを縫うシーンで出てきたミシンが相当旧式だったこと。それこそ昭和30年代のものである。今時誰がこんなもの使うのか。さらに違和感は続いた。出てくる車が今時マニュアル車であるうえ、車の内装も手でまわして窓を開けるとか、今時こんなの乗っているのはマニアだけだろう、という古さ。極めつけは豪雨が近いときに「花」が聴いているラジオ。今時テレビじゃなくてラジオってのも凄いが、ラジオの形が相当旧型。カセットテープが入るラジオって今売ってるのか?

このように全体的に、主人公達が田舎に引っ越してから、昭和30年代にタイムスリップした感じでとても僕には現代とは思えなかった。

本当にこの作品は「現代日本」を描いているのか?

この作品は意図的に舞台を「現代日本」と思わせないようにしようとしている節がある。「となりのトトロ」のような古きよき日本を描こうとした監督の下心だろう。しかし、それならなぜ前述のように、年代が分かる描写を入れたのだろう。

本作品の「サマーウォーズ」と対称的な部分は、「IT機器が全く登場しない」という点である。スマホはもちろん、携帯電話も携帯ゲーム機も、一切登場しない。そうすることで、そういうものを意図的に登場させずに「昔風」にして、田舎の描写の整合性を整えているのだろう。

しかし僕はそうやって描かれた田舎の描写に著しい違和感を覚えた。

<以下ネタバレ>
ただでさえ子育てに大変な花が「食費を浮かすため」といって農業を始める意図が分からなかった。子育てだけでも疲れるのに、そんな体力がどこにあるんだろう?子育ても田舎の仕事もこなす、そんなに完璧な母親なんているのだろうか?

そこを匂わせるように「退職後の人達がよくここに来るが、農業にも向かないから戻っていくメンタルが弱い人が多い、」と言うシーンがある。要するに、それだけ花がタフな人間である、と。ちょっとタフさが不自然すぎる。

農業にも向かない田舎の山間の村で、子育て中のシングルマザーが受け入れられるなんて、ちょっと田舎を理想化しすぎていないか?と思った。

そう、現代社会の田舎にリアルさがない。

僕が現代社会の田舎といってリアルに思い浮かべるのは次のような光景だ。

田舎だからこそ、インターネットが引いてあり、そこで外の世界と繋がる。買い物が困難な場合はネットの通販を利用する。田舎で遊びが少ないからこそ、ゲーム機が遊びのひとつになってもいい。友達がいないおおかみこども達ならなおさらである。田舎だからこそ、携帯電話で外との、そして親御さんとの連携が必要になるし、今時田舎暮らしの奥さんはみなそうしているはず。家がまばらにしかないって設定なのに、頻繁に井戸端会議が行われる方がおかしい。親しくなったら携帯電話で話すだろう、こういう場合。

移動図書館で本を借りて調べ物をする母「花」の姿なんかそのアナクロさの一番の象徴だと思った。普通の主婦だったら、いまどき、インターネットで調べるだろう?って思った。

細田監督が意図的にIT関連を排除しようというのを感じたが、僕にはそれが不自然に見えて仕方が無い。

現代社会、僕は「相談できる相手がいなくて抱え込んでいたシングルマザーがインターネットで相談相手を見つけて救われた」というケースをたくさん見ている。「ITこそが救いになって助け合える主婦」っていうのが現代のリアルだと思う。そして、それはネット以外のインフラが乏しい田舎だからこそ顕著になるはずだ。だから、ITを排除してしまったら、そういう田舎に嫁いだ女性の共感は得られないんじゃなかな、と思った。

「ITによる救い」を排除したこの作品は「田舎で子育てをするなら、タフじゃないと生きていけないよ」ってシングルマザーを突き放しているだけに見えた。

主人公の境遇に共感できない

<以下ネタバレ>
このように、本作で描かれているのは「シングルマザーとしての母『花』」の描写であるが、僕は主人公のこの「シングルマザー」像が理想化されすぎていると思った。母の強さを描いたのだろうが、「完全無欠」であるがゆえにイマイチ共感できない。

「おおかみこども」であるから、地域社会から疎外されている親ひとり子ふたり。ここは多くのシングルマザーが共感するシチュエーションだと思う。

それなら児童虐待が常態化している現在、少しは「弱さ」をにじませてくれるべきだった。「弱さ」を見せる点があればこそ、同じ立場の者から共感されるのではないか。この作品ではそういう点が見当たらない。

そもそも育児って「母が子に与える」だけのものなのか。この作品では、「母が子を守る」という一方的な視点ばかりが目に付くが、それは違うと思う。「子から学ばされて成長する母親」っていうのも描くべきではなかったかと思う。子が親の見せた弱さを見て慰める、親が元気付けられる、そんな光景は普通にある。

これは僕の勝手な予想だが、監督には子育ての経験がないんじゃないか。

繁華街に出て親子連れの会話を聞いてみてごらんよ。親は子供に対して常に「理想の親」を演じていないよ。普通に一人の「不完全な人間」だから、子供がぐずると大人気なく怒るよ、それこそ周囲が「そこまで言わんでも」と思うくらい子供をしかりつけるよ。一方、子供は親が思っているより賢いよ。子供は時に大人が気づかないような賢いことをずばっと言ってのけるよ。時には子供は既に親の気を遣って物を言うよ。そういう視点こそ「子育て」を主題にするなら必要だったんじゃないか。

そういうのって監督には分からないのかな、って思った。この作品を作るにあたって、狼や自然を描写するために様々なところに取材に行ったみたいだが(EDのスタッフロールに「取材協力」がたくさん出てくる)、本当に取材するべきだったのは、子持ちの普通の親達じゃないのか。団地や繁華街で何気ない親子連れの会話に耳を傾けることじゃないのか。

「葛藤」の描写が設定の奇抜さに比べて不自然

登場人物にもっと葛藤があってもいいのに、様々なことがすんなり行ったことになっている。そこは省いちゃいけない部分だろう、っていろいろ思った。

<以下ネタバレ>
たとえば、雪が小学校に入るシーン。これまで「狼に変身する子を入れられない」とずっと保育園に入れることも拒否していたのに、「おみやげ三つ、たこ三つ」の狼にならないおまじないを教えるだけで、雪が「狼になることを極力慎む」ということで小学校に通うことを母から許可してもらう。おかしい。子供ってそんなに急に成長できるものか?

小学校とは、それまで同世代の子供との付き合いがほとんどなかった雪にとって、最初の社会生活の場だったはずだ。最初の一年生のところで何も起きない方がおかしい。しかしなにも起きないのはどういうことだ。

そして雪がそれ以降、学校で狼になることで問題を描かれない。四年生になって転校生の草平に怪我をさせるまで、問題が起きないなんて、あまりに無茶じゃないか。わずかに描写された部分といえば「普通の女の子と趣味が合わない」ということくらいか。現実に狼に変身する特性があったら、そんなもんじゃないだろう。

もう一つ、「葛藤の欠如」を象徴的に感じたシーンがある。

「おおかみこども」が成長して、狼の道を選ぶのか、それとも人間の道を選ぶのか。これが作中の大きな葛藤として描かれている。学校に少しずつなじんでいく雪と、学校になじめず自然と一体化して狼としての道を歩き出す雨。これは一番大きな場所のはずなのに、ある夜、二人が突然言い争いになるシーンが描かれた。

正直、僕はここで冷めた。

狼になるか人間になるか、日常から二人とも葛藤を持ち続けているはずだから、もっと日常のさりげない言動から、少しずつ葛藤を持っている意思を理解して交わしていっているはずだろう。こんなにあからさまに口にして、突然論争するような主題とは到底思えない。表現方法が稚拙だ。

だから、葛藤をきちんと描くなら、日常のしぐさの一つ一つを丁寧に描いていくべきだった。ジブリ作品なら、そういう「さりげない描写」の積み重ねが見られたのに、と感じていた。

このようにこの作品は葛藤が突如現れて、突如解決されていく。結局それは最後まで続く。

クライマックス。母「花」は、子供たちが「狼になるか子供になるか」を選ばなければならないと理解しているが、ずっと弟「雨」が狼の道を選ぶことを拒否し続ける。しかし、いざ大雨になり、「雨」の仲間の動物達に危機が迫ると、狼の野性を出して山に行ってしまう。それを探しに行き、倒れてしまう母の「花」。ここがクライマックスになる。

弟「雨」それを助けて駐車場に連れて行き、そこで「雨」が完全に狼になるのを見届ける母親「花」。朝陽が差してくるとともに遠吠えして人間に別れを告げる「雨」。ドラマチックなシーンなんだろうが、僕にはさっぱりだった。ここまでまるっきり葛藤が描かれてなかったため、感動が感じられない。

一方、もう一つのクライマックスは、大雨で学校から帰れなくなった雪が、草平と二人の教室で、彼に狼であることを明かす。彼にのみ、正体を明かした。

これは、非常に重要なカミングアウトのはずである。しかし、このシーンが他の伏線になることもなく、そのまま話は終わる。一瞬の葛藤が、何の展開も生んでいない。

結局、葛藤が描かれていないので、感動がないのである。

カタルシスが得られない

全体的なこの作品の印象を言うなら「噛みあってないジグソーパズルの断片が並べられている状態」だ。映像、アニメーション、人物設定、それぞれを個別に見ると素晴らしいのになんだかそれらがかみ合っていない。シナリオも演出も断片的な部分は光っているのに全体を通して観てみると「んんん……?」ともやもやが残る印象になっているように感じる。

ラストも結局尻切れトンボで終わる感じだった。話のあちこちで入るナレーションは、女の子の雪が過去を振り返る形で「〜〜であった」という形で語られるのだが、これをたたむのを最後の最後で失敗している。

<以下ネタバレ>
話は雪が中学校に入る前で終わり、雪が「中学校の寮に入る、その後も母はあの家で暮らし続けた」と語って終わる。

僕は雪の視点で語られるナレーションの「話をしている現在」とはてっきり雪が母親の「花」と同じ立場になった時、つまり子供を持ってどう思うか、そんな情景が語られるとばかり思っていた。

最後それが無かったのは、残念すぎた。要するに、全てが過去形のナレーションというわけで、エンディングテーマが流れ出したとき、何がなんだか分からなかった。

彼は宮崎駿のように「人間」を描けるか

以上が感想である。要するに現段階では彼が「ポスト宮崎駿」と呼ばれることに違和感を僕は覚えている。

ポスト宮崎駿になるには、この人には人間の「根底」の理解が足りていない。

宮崎駿は人を描いている。どんな舞台設定にしても、人間というのは時代や場所を超えて通じる物がある。それが人間を人間たらしめている、そういう「根底」がある。宮崎駿作品ではそれが描かれているからこそ、僕のように映画にもアニメにも詳しくない人を唸らせるし、時代や文化を超えて愛されているのだ。

一方、細田守の作風は現時点でそこまで普遍的なものだろうか?

まだまだだと思う。

サマーウォーズはOZという仮想空間があって、そこで繰り広げられる世界と現実世界がシンクロするのが面白さだし、本作品も、昭和的ノスタルジーの世界とおおかみこどもという「異なるもの」のミックスが面白いのだが、そこの「根底」に通じる人間味が宮崎駿作品ほど根底までえぐれていない。そこをえぐれるようにならないと、大化けは無理だと思う。

宮崎駿は天才だが、細田守は今のところ秀才。この二つを分ける高い壁を今後越えられるか

宮崎駿は天才である。

宮崎駿のドキュメンタリーを見ていて、彼の破天荒さ、天才さを観た。作画で気に入らないところは容赦なくダメ出しして、最終手段として自分で直してしまう。

自分で様々な経験をして「身体感覚」の大切さを説き、そこから作品を作る。「千と千尋の神隠し」で川掃除のボランティアをして、そこからオクサレ様が川の神様で、綺麗にすると喜ぶ、というのを思いつく。自転車がゴミに混じっているのは、実際の経験だという。

一方、細田守はそこまで破天荒な人だろうか?

僕は彼は優秀な人だと思う。秀才だ。

でも天才と秀才の間には越えられない壁がある。すこし才能がある人がたくさん努力して到達できる場所と、才能がないとたどり着けない場所がある(将棋で言うと、プロ二段と三段の間にその壁があるという)。細田監督はまだその「壁」を越えられていないと感じた。

今後、そこを越えられるのか。化けてくれるかどうか、注目だ。僕は細田監督をまだ好きになれたとはいえない。恐らく僕の方がずれていると言われるんだろう。しかし、本当の名作は僕のような門外漢を唸らせてくれる。細田監督がポスト宮崎駿になるには、そういう部分が必要なんだと思う。

エスケー氏の「フリーゲームをふりかえる」に対する3年後の僕の返答

この文章について

この文章はid:Untouchable 氏(@Antouchable)のツイッターでの以下のツイートに触発されて書いたものである。

https://twitter.com/Antouchable/status/225732325890199552

もう三年前か…中編・後編はまだかのう d.hatena.ne.jp/esu-kei/20090719/p1

ツイッターで書く予定だった文章であるが、若干長くなったのでブログに書くことにした。全てのパラグラフが140文字以内になっており、文末に(続)がつくのはそのためである。

本文

とある方がエスケー氏の「フリーソフトをふりかえる(http://d.hatena.ne.jp/esu-kei/20090719/p1)」のリンクを張っていた。もう3年前の記事だが、僕にはその記事に対して並々ならぬ思い(ネガティブな方)を持っている。波風が立つと思って黙っていたが、今こそ書いてみようと思う。(続)

執筆者のエスケー氏はいつも意識の高い文章を書く人だった。しかしこの記事に僕は愕然とした。制作中の拙作の話から始まるのだが「制作は難航している、そしてシェアウェア化が発表された」という内容が淡々と書かれていた。そこはそう結論から入っちゃいけないところだろう、って。(続)

彼の引用している僕の記事を読めばムンホイXPで僕がどれだけ周囲の声に悩まされて葛藤したか、このことを一番伝えたかったのであり、シェア化は単なるひとつの結論だと分かるはずだ。なぜこの人は僕の葛藤の経緯を考慮せず、「シェアウェア化」というセンセーショナルな言葉にだけ飛びついたのか。(続)

……僕はそのブログ記事を読み、それまで尊敬していた彼に疑問を抱き始めた。しかしその時は、一度きりだと期待して黙っていた。だがその後の彼とのメールのやり取りで、彼のさらに酷い、耳を疑うような発言を繰り返され、僕はすっかり冷めてしまった。そこを説明していく。(続)

彼はその記事公開後まず僕に、ムンホイXP体験版の批判的な感想を付けて僕にメールを送ってきた。「どこそこのシーンでああいうのがあったのはさすがに良くない」と。そういう反響にうんざりしたから今はそっとしておいてと僕が書いてたのを読んだだろあんたは。(続)

今、その時の彼のメールを読み返して見た。敢えてそこから引用する。『そもそも「please don't disturb」と書いているのに、僕のやってることはドンドンとホテルのドアを叩いているようなものです。』分かっていてやったんだなお前は。自分なら許されると勘違いしてないか。(続)

そこで苛立った僕は返事で僕の気持ちを察してくれるようにほのめかした。そうしたら彼の次の返事には何を勘違いしたのかこう書かれていた「すみません、お金がないのでカンパはできません」。完全に話がかみ合ってない。カンパ募集検討は事実だが、なぜそこだけを突く。僕は金の亡者か。(続)

結局エスケー氏に露骨な不満の意思は示さなかったが、ショックは大きかった。彼ほど信頼を寄せていた人が、ここまで無理解な人間だったとは。はっきり言う。彼がムンホイXPの制作意欲にとどめの一撃を差した。僕はこれで制作中止を心の中で決めたのだ。(再開に2年弱かかった)(続)

でもエスケー氏は未だに自分がしたことを自覚して無いだろうね。僕がその後ツイッターを始めたら彼は僕をフォローしてきた。でも僕は即効でブロックしたね。彼が僕がブロックした記念すべき最初の人だ。もしかすると未だに彼は僕がブロックしたことに気づいてないかもしれない。(続)

僕がこの一件で悟ったのは、彼は長文で取り繕うのは得意だし知的に文章を見せることは出来るけど、他者への配慮はされていないから知らず知らずのうちに人を傷つける文章になってる可能性があるってこと。彼のブログはコメント不可だが、書けたら何を書かれていたことか。(続)

結論。僕の周囲のフリーゲームに意識の高い人は皆エスケー氏を尊敬しているだろう。僕もそうだった。しかし拙作の制作難航という「苦境」への彼の対応で僕は冷めた。人格って普段の文章より、こういう局面での対応であぶりだされるものなんだな、と痛感。(続)

追記。今「フリーソフトをふりかえる」を読むと、考慮をにじませる文面が加筆修正されてるようだ。しかし僕は初版の文面をしっかり覚えている。作者を確実に傷つけるあの文面を。今更直しても後の祭りだ。(終)

困った友人3・友人の理解に苦しむ価値観

先日書いた困った友人の話(d:id:ktakaki:20120517:p1)について、彼から縁を切られた経緯について思ったことを昨日ツイッターに書いたので転載する。よろしければ読んでいただきたい。

https://twitter.com/ktakaki00/status/218737859195191298

本気で人を敵に回したことのない「普段は人当たりがいいけど隙がある人」が「本気で地獄を経験してそこから這い上がってきた人」を敵に回しがち。人当たりのいい人に限って「思想信条に関する話は、不用意に話すと人を傷つけることがある」ってことを分かってない場合が多いんだよなあ。

https://twitter.com/ktakaki00/status/218759894290022402

僕は思想信条に関する話は、いろんな考えの人がいると思いあまりツイッターには書かず、代わりに然るべき場所で声をあげることにしている。僕と親しかったとある方は逆で、ツイッターでは偉そうに思想信条の話をするのに、然るべき場所で声を上げた僕に露骨な嫌悪感を示した。どっちがずれてるのかな。

https://twitter.com/ktakaki00/status/218919769569640451

補足。先のツイートで「僕」と「僕と親しかったとある方」は思想信条的にかなり共通する関係であり、決して対立する関係ではなかった。それなのにこういう隔たりが出来てしまった。僕は首を傾げている。結局彼からは逆上され一方的に縁を切られた。どうやら僕は「人当たりのいい人」を敵に回すらしい。

https://twitter.com/ktakaki00/status/218919842974138368

さらに補足。僕が言う「然るべき場所」というのは、具体的には書きませんが、それぞれの特定の問題に対して、同じ考えを持つ人達の集まりです。それぞれ細かい部分での考え方は違いますが、その点については共通、と。まとまってデモのような行動を起こすことも含まれます。

これに対してとある人(めいとら氏 @maytora_act)の反応
https://twitter.com/maytora_act/status/218787226056790018

@ktakaki00 もしそうなら、その『とある方』のほうが明らかにおかしい。その人が何か勘違いしてるか、サスケさんが意識してない範囲で別の事で怒ったか、突発的な被害妄想的みたいな何かのような曖昧な事で怒ったに違いない

皆さんはどう思うだろうか。

RPGツクール95作品を最近のOS(Windows 2000/XP以降)で起動する際の覚書

はじめに:この文書について

RPGツクール95は今ではほとんど使われなくなったツクールであるものの、これで作られた作品には名作が多く、それらをプレイしようという人のためにも、情報が必要だと考えた。
ネット上ではまとめられた情報が少なく情報が拡散しているのが現状だが、WikipedaのRPGツクール95の項目は以前より大幅に加筆されまとめられている(どんなツクールだったのか、今からプレイする人はどんな注意が必要か、など)。
ここではWikipediaの重要な部分の転載に僕がネットから集めた検証可能な情報を含めて覚書として書いた。皆の参考になれば幸いである。

具体的に起きる問題

これはWikipediaに執筆された項目の部分転載である(ソース: http://ja.wikipedia.org/wiki/RPG%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB95)
概ね書籍やネットの情報から検証可能であるが、もしかしたら広義の独自研究と見なされ誰かに消される可能性も否定できない項目なので事前退避も兼ねている(余談だが、Wikipediaの要出典厨は非常に粘着的でありウザイ)。

  • 公式サイトの動作OS対応表( http://tkool.jp/support/os_list.html )ではWindows XPなども動作対応となっているが、実際にそれらのOSで動かす際には制作ツール側、作成したゲームともにいくつかの制約が存在する。
    • 実質的に制作ツール側、作成したゲームとともに問題が起きないとされているのはWindows 95,98およびMeのみである。
    • 制作ツール側では、廉価版のRPGツクール95 Value!が発売されており、Windows XP(Homeのみ)での動作保障はこちらのみである。廉価版でない方は、Windows XP以降で起動すると「このシステムはWindows NTでは動作しません」と表示され、強制終了してしまう。(なおWindows 2000およびWindows Vista以降での動作は公式サイトの記述どおり、いずれも動作保障されていない。)
    • 作成したゲームのプレイはWindows XP以降でも公式には動作保障されていることになっている。(Windows Vista以降は32bit版OSのみ動作保障)。しかし、256色モードで動作し、Windowsのシステムパレットも書き換えてしまう形式になっているため、Windows XP以降では画面の色がおかしくなることがある。特にウィンドウの色がおかしくなり、メニュー画面や選択肢で選択中の項目が文字と同じ色で塗りつぶされてしまいゲームの進行に支障が出るケースが多数報告されている。他にもフルスクリーンモードからウィンドウモードに切り替える際に強制終了するなど、特定のハードに依存するバグも報告されており、対応OSであってもプレイすらままならないケースがしばしば存在する。

具体的な解決策

RPGツクール95作品を遊んでいて「ウィンドウの色がおかしくなる」という問題が起きた人のための具体的な対処法の情報を僕がまとめた。

こちらはWikipediaに書くには検証可能性が完全には担保出来ない可能性がある(ネット上の動作情報、僕には未検証の部分あり)ので書いていない。

  • Windows XP以降での基本的な対処法
  • Windows Vista以降で動かすための非公式パッチが出ている
  • Windows 7ではウィンドウの色が変わらずプレイできたという報告もある。一方で全く起動できなかったという報告もある。後者の場合の対応は後述。
  • VMwareを使用している人は、それを利用してWindows 95/98/Meのいずれかをインストールすれば解決する。
とある方からの報告

Windows Vista,7では全く起動しないという人もいました。その方からの報告です。具体的にはVirtual PCを使う方法です。

  • Windows 7の場合(仮想化機能が搭載されていて、かつ、Windows 7のエディションが「Professional」と「Ultimate」の場合):
    • 1:まず、インターネットで、「Windows Virtual PC」と「Windows XPモード」をダウンロードし、インストールを行う。
    • 2:「スタート」メニューを開き、「Windows Virtual PC」をクリックし、「Windows XP Mode」をクリックする。
    • 3:画面の指示に従って、操作する。
    • 4:Windows XPモードのデスクトップの画面が表示されたら、作品をWindows XPモード内に用意し、通常通り実行する。

その他

  • RPGツクール95作品を最新のツクールでも滞りなく遊びたい」と要望を持つ人は少なくないが、現状は実現していない。
    • 誰かがそういうツールの作成を実現してくれればヒーローになれるだろう。僕はゲーム制作に徹したいのでやる予定はない。
  • 僕がプレイしたことのあり、今プレイするに値するRPGツクール95作品を思いつく限り挙げていく。
    • コンテストパーク受賞作品:ときめきメロディー、パレット、Bite a cat!、パンダとウサギ、クッキングアドベンチャー、ROAD
      • (※拙作品ムンホイもありますが、別にいいです。やるならリメイク版「Moon Whistle XP」の方をお奨めします)
    • それ以外:禁術と呼ばれる術、赤のクロニクル、救星主伝説、Philic〜過ぎ去った未来、Lost Memory(前編のみ。後編はシェアウェアなので未プレイ)
    • 他にも僕が未プレイの作品でもいろいろあるから、各自探してみて欲しい。
    • これらの作品を皆が無事プレイできるよう祈っている。Good Luck.

マイノリティが自分の特徴をカミングアウトすべきかどうかがケースバイケースである理由

なぜこの文章を書いたか

某匿名掲示板で、ある人に対して「あなたは自分の性癖を隠しているが早くカミングアウトすべきだ、その方があなた自身のためでもある。多くの人がそれに気づいてあなたの元を去ってからでは遅い」という意見を見かけたが、それは必ずしも正しくないと強く感じた。その理由を述べる。

この文章について

上記のような発言をしている人は必ず読んで欲しい。

それ以外の場合で、あなたや友人がもしカミングアウトを悩んでいることがある場合、あるいは何かを既にカミングアウトして悩んでいる場合、得る物があるだろう。

マイノリティに興味がない場合、時間の無駄かもしれない。

はじめに:マイノリティとはどういうことか

マイノリティは、それだけで「色がついている」と見なされ、それ自体が特徴とみなされる。例えば、異性愛者がそれを公言しても「エッチだなあ」程度の反響で、特に何とも思われないが。同性愛者がそれを言うと、理解や同意にせよ、拒否にせよ、必ず何らかの「色」がついたものと認識される。そして、差別の対象にすらなる。

先に結論を言う

そして匿名掲示板の彼らは言う。「そういう性癖がばれてからでは、人が離れていくので遅い。早めにカミングアウトしておけば、理解者だけが付いてくる。その方がいい」と。しかしそれは誤解である。あてはまることもあれば、そうでないこともある。

なぜか。本当にその人を理解している人が、その人の特徴(性癖や思想信条など)を知っても、その人のその他の部分を理解しているなら、理解してあげられることがある。一方で、仮にその性癖だから、と拒否していたら、食わず嫌いと同様、その人の本当のアピールポイントに気づかれないまま拒否されることになる。

実例

槇原敬之を例に挙げよう(彼を例に挙げるのは、説明のしやすさが唯一の理由であり、全く他意はない。ご理解されたい)。彼は逮捕され、その裁判の経緯で、ゲイであることが知れ渡った。こういう場合、女性ファンが離れることが少なくないが、それが知れ渡っても、彼の人気は衰えなかった。これはなぜか。ひとえに、彼の作品の素晴らしさと人間性にあると言える。彼のファンにとっては、あくまで作品と人間性こそが一番であり、同性愛かどうかなど、大した問題ではなかったからだろう。

槇原敬之自身は、自分が同性愛者であることをカミングアウトしていない(注:今検索すると、カミングアウトはしているという記事も見かけた。しかし、大々的に報道されるほどには記憶していないため、敢えてこのように位置づけた)。仮に、彼がカミングアウトし、彼がゲイであることが前提であり、彼がどんな作品を出しているかは知られていなかったとする。その場合、恐らく「彼がゲイだから」という理由で敬遠する人が続出したであろう。先にゲイであることを知っただけの理由で、彼の素晴らしい作品性を知ればきっとそんなことは気にならなかったであろう人でさえ、敬遠してしまうのである。

それでは、槇原敬之は「有名だから、カミングアウトしないのが正解だった」と言えるか。それもまた一概に言えない。仮にカミングアウトしても、支持を得る方法があった。それは、「セクシャルマイノリティとして」活動することであった。つまり、同性愛を自分のブランドイメージにすることであった。こうすれば、同性愛の当事者や研究者が率先して彼をアピールすることになっただろう。それだけでなく、「同性愛って何だろう?」と興味を持つ人が、そういう意識で彼を評価したから恐らく人気の意味ではまた違った評価のされ方で、人気を維持できたのではないかと思う。

彼がそれをしなかったのは、あくまで彼の「自分は何者か」という"スタンスの選択"の結果なのだと僕は考える。つまり、槇原自身が、「あくまでニュートラルに、作品を愛してくれる人に広く届けたい、同性愛のことは知ってもらう人に届いて、そこで判断してもらえばいい」と考えたのか、「自分は同性愛というスタンスで、賛否を受け止めながら、その上で作品を発表していきたい」と思ったのか、である。槇原の作品を見ていると、後者の選択も出来たはずだ。しかし彼自身は前者を選んだ、それはただ単に彼自身の信条ゆえでありそれ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。

(もちろん、これは違うかもしれない。綿密な調査の結果、カミングアウトしたらファンや売り上げが激減するというデータがあり、口止めを強要されたからかもしれないが)

結論が導かれた理由

以上で、理由がお分かりだろう。

要するに、「カミングアウトをする」ということは、これまでニュートラルだった自分に、「色がつく」ことを意味する。周囲の見方が変わることを意味する。これを自覚しようが、自覚しまいが、カミングアウトをすることで、そのことを実感することになる。マイノリティというのは、マジョリティとは違う「色がついた」存在であり、それ自体がその人の「前提として」勘案されるということである。

よって「マイノリティであること=自分のアイデンティティ」としたい人は、覚悟を決めた上で早かれ遅かれカミングアウトをすることをお勧めしたい。きっと、一部の人はあなたのもとを去っていく。しかしそれ以上に新しい出会いがあるだろう。一方、「あくまでマイノリティに自分のアイデンティティはない。別のところにある」と思う人はカミングアウトはしないのが賢明だ。あなたはそれ以外の部分で味方を得、仮にそのマイノリティの特徴がばれても、あなたの本当のアイデンティティ(作品として表現したもの)がぶれていないのなら、離れていく人はそう多くは無い。

最後に

本当は僕はこんな文章は書く必要がないと思っていた。当たり前のことと思っていた。

それを敢えて書いたのは、ほかでもない、匿名掲示板の無理解な意見を読んだからだ。カミングアウトするかどうかなどというのは、本人が自分のスタンスを考えてから決めるべきであり本人の選択である。それを外野がとやかく口を挟むべきではない。

LA-MULANA(ラ・ムラーナ)の記事に見る日本のインディーズゲーム業界の現状

この文書について

この記事は、はてなブックマークで、見つけた、次の記事の日本語版(原文)を掲載します:
http://la-mulana.com/en/blog/a-gold-rush.html

この記事を僕がツイッターで紹介したところ、開発側公式( http://twitter.com/shoji_nakamura )からリプライが来て、原文を送ってくださったのです。

まず、その原文を掲載し、その後解説、僕の雑感を追加します。

原文


あれから、いろんなサイトがこのニュースを扱ってくれています。
インタビューにも答えています。

Indie Games
http://indiegames.com/2012/05/nigoro_interview.html

Nintendo Life
http://www.nintendolife.com/news/2012/05/interview_nigoro_on_la_mulanas_cancellation


WiiWare市場はもう力がないのかもしれないが、待ってくれていた人には関係のない話だ。

我々はPCでリメイク版LA-MULANAを出す道を選んだが、
可能であればWiiWareでもリリースされてほしいと思っている。
その気持ちが伝わったのか、インタビューが出てから
さっそくいくつかのパブリッシャーが声をかけてくれました。

当然ながら日本の企業からは声もかからないしインタビューも受けてないよ!
これが日本のゲーム業界の状況です。日本ではインディーズゲームの発展は
望まれていないのかもしれない。
やはり海外に出て行くしかあるまい。

我々は、LA-MULANAが海外でリリースされることにより、
日本のインディーズが海外でもリリースできる事例の1つを作り出したいと
思っている。
そのとき、我々と共に活動してくれているのはどこのパブリッシャーだろうか?
LA-MULANAに続けと、まだ眠っている日本の良いインディーズゲームを
発掘してくるパブリッシャーはいるだろうか?

日本のインディーズゲームは掘り出されていない金脈だぞ。
日本では掘り出す人がいないようだから、もう君らが好きに掘り出してくれ!

解説

LA-MULANAとは、Wikipediaの情報が詳しいので詳細はそちらに任せますが、個人的に興味を持っているのは「PC用の(会社に所属しないグループの)個人製作のフリーゲームであり、商業化が決まったもの」という特徴が挙げられます。

日本のインディーズゲームで、商業化が決定したゲームはそれほど多くありません。海外でも展開された例といえば、洞窟物語が僕が知る限り一番有名でしょう。僕のホームグラウンド、ツクール界隈では、僕の知る限り、パレット、コープスパーティーが挙げられます。これらは、それぞれ異なった経緯で商業化へのプロセスが進んでいったように認識しています。

そして、LA-MULANAも、この一つに加えられるべく、開発および交渉が現在進行形で進められているわけです。その前提で上記の文章は書かれています。

本文を乱暴に掻い摘んでまとめるとこうなります、「WiiWare版のリリースは暗礁に乗り上げたが海外のパブリッシャーが声をかけてくれた。でも日本ではインディーズゲームの文化は期待されておらず全然興味を示さない。我々(開発者側)は『日本のインディーズゲームの海外展開』に賭ける。」

同じような内容を日本語で書いた文章が(こちらも開発者NIGORO側執筆)、以下に公開されていると教えてくださいました。興味を持たれた方はこちらも参考になると思います:
http://la-mulana.com/jp/blog/20120522_news.html

(追記 12/05/23 21:50 WiiWare版の日本語版は既に昨年6月にリリースされているそうです。リリースで揉めているのは海外版とのことです。id:Untouchable さんのはてブ情報より。ありがとうございます!)

僕の雑感

商業化を夢見た時期

僕もフリーゲーム作者の端くれだし、一度は商業化なんてことも憧れたことがあります。

現にいくつかのフリーゲームが商業化されている現状です。上記に挙げた例以外にも、「勇者30(原題:30秒勇者)」や、フリーゲーム界隈では馴染みの深い個人主催のコンテスト「3分ゲームコンテスト(通称プンゲ)」発祥の「Every Extend Extra」などが挙げられます。

Every Extend Extra」が出た2006年、僕は携帯電話用ツクールのサンプルゲームとして「ぼくのすむまち」というエンターブレインFOMA公式サイト「ツクールモバイル@RPG」用の連載RPGの仕事をお請けしており、インディーズと商業の敷居が確実に下がりつつあるのを感じていました。でも、それは一夜の夏の夢でした。このFOMA公式サイトは、不採算から翌年4月に閉鎖が決まり、それ以上の展開はありませんでした。

「商業では出来ないことを目指してこその同人」という思い

その後も、「同人やシェアウェアにするか、可能なら商業化を狙いたい、そんなゲームを作りたい」と色気を起こしている時期が長く続きました。

そこで感じたのは「同人でお金を貰うことになると、確実に売り上げを意識する必要が出てくる。同人の本来のいいところは『商業に縛られずに自由に出来ること』のはずだったのに本末転倒」という結論でした。「売り上げが目的」という人なら問題ないのです。僕の目指すところは違いました。

僕が目指したのは「今の業界が商売としてやろうとしても出来ないものを作りたい」ということでした。今のゲーム業界を見ていて思うのは、続編やシリーズ物、コラボなど保守的な物が多く、完全な新作で広がっている物をあまり見かけません。「全く新しいもの」がフリーでもいいので広がり、認知されていくこと、それによって商業化し、業界が潤う、そういう「博打」が打てるのが、同人のいいところでは無いでしょうか。ゲーム業界に於いても、実験的な制作に予算を割くことなく、既に同人で有名になり一定の売り上げが見込めるコンテンツは魅力的でしょう。

何気ないツイートが生み出した面白い反響

そんなことを考えている僕は、昨年の8月ごろ、こんなことをツイートしました。
ソース:http://twilog.org/ktakaki00/date-110802

以前から友人と酒飲んだりしているとよく言われたのが、「フリーゲームがこれだけ製品化しているのだから、ムンホイにも話が来てもおかしくない、それだけのオリジナリティがあるから」ということ。僕は「ツクール作品だから無理でしょう」と軽く否定していたが。

コープスパーティーは例外として、製品化したフリゲは皆非ツクールだ。一般のゲーム会社がツクール作品に興味を示すというのは考えにくいと思ってきた。これまでは。でも、今のツクールはスクリプト採用しているし他の制作ツールと遜色ない。誰かが前例を作るかも、と思い始めた。

それなら僕もだめもとで動いてみる価値はある、と思い始めた。しかし、最大の問題は、どう動いていいか分からないということ。どこの企業がツクール作品も許容して持ちこみを受け付けているのかなど、僕には何も分からない。知ってる人がいたら誰か教えてください。

半ば、ジョークで書いたのですが、これが興味深い結果になりました。2ヵ月後の10月、ゲーム専門学校の学生さんが、講師たちに実際に相談してくれたのです。彼らは業界OBが多いようで、事情に詳しかったようです。結論は「確かに商業化は困難だが、だからこそ今はフリーや同人の持つ意味が大きくなっている」ということの再認識でした。

この一連のやりとりは、Togetterにまとめられています:
「あるゲーム専門学校生とあるインディーズ制作者の会話 - Togetter」

今のゲーム専門学校の学生さん達がどういうことを考えているのか、今ゲーム業界を目指すのはどういうことなのか、そんなことも分かるため、インディーズ界隈全般や、業界を目指す人からの反響が大きかったです。

改めて、今インディーズゲームの商業化に挑戦する意義

以上から僕自身はインディーズ(フリーゲーム)としてやっていくのが一番、と結論付けたのですが、果たしてそれが唯一の答えでしょうか?僕はだめでも、誰かがブレイクスルーを見つけ出す行動をしてくれるのでは?そういう期待はあります。

そして、今回のLA-MULANAの一連の流れは、その理想と現実を、しっかりと我々に示してくれています。あくまで「採算が取れない」とつっぱねるパブリッシャー側の姿勢。日本では興味を持ってもらえないから海外で興味を持ってもらい、そこから日本に逆輸入できたら……?という風に、様々な可能性に賭け、現実的に行動しているのです。今後の動向に注目されるべきでしょう。

個人の同人、フリーゲーム制作者が商業化を目指すなら

さて。視点を変えて、今度はフリーゲームや同人制作者の視点から「いかに商業化を目指すか」を考えます。

現状商業化されるフリーゲームは「まず海外展開するのが現実的」という選択の結果、言語の敷居の低いアクションゲームが選ばれています。この考えで行くと、RPGは翻訳やローカライズに膨大なコストがかかるため、現実的ではないかもしれません。仮に日本のみの展開を見ても、フリーや同人のRPGの商業化は聞いた事がありません。開発コストが高く、採算が取れないからでしょう。ツクールユーザーには悪い知らせです。

しかし、望みはあります。高い開発コストに見合う、それだけの人気が出てくれば、可能性があるということです。今はツイッターYoutubeなど、ソーシャルメディアの時代です。どこで人気が出てくるか分かりません。最近ではニコニコ動画を発端にしてフリーゲームが爆発的に注目されることがあります。直近ではIbが顕著な例でしょう。これらはまだ、商業化を掘り出す決定打にはなっていません。しかし今後も、新たなソーシャルの場が作られ続け、何が起きるかは未知数です。

大切なのは、「いつか発掘される」時のためにこそ今、発掘されるに足りるゲームを作ることでしょう。確かに運次第かもしれません。いい物を作ったからといって、必ずしも評判になる保障は無い。しかしいい物を作れば共鳴してくれる人は必ず現れるし、あわよくばその小さな流れが大きな流れになりうる。

そして、フリーゲームや同人の作者が商業化を目指すなら、商業では出来ない、独自性を出したゲームを出していくべきではないでしょうか。商業で出来ることは商業に任せておけばいい。商業で出来ないものに挑戦するからこそ、成功したとき、商業に必要とされるのです。業界でも新しいものを作って実験がしたい、しかし彼らの元では出来ないのです。なぜなら今の商業制作は大規模化しており、たくさんのリソースが必要になっており、博打が打てないのです。フリーゲームや同人なら、それが出来ます。だからこそ、注目されたとき、商業化されうる作品となるのです。

革新的な物を起こそうという野望は決して無謀ではないと信じます。むしろそれがゲーム業界に風穴を開けるために必要だと信じます。そして、今のNIGOROのLA-MULANAでの挑戦は、我々がそれをするための道を、少しでも舗装してくれるものになるでしょう。